吃音矯正の歴史

《言友会関東プロック大会・

故梅田英彦氏講演記録の一部20001119(参加しました。)わが国初の吃音矯正所は「楽石社(らくせきしゃ)」といい、今はありません。 創立者:伊澤修二(いさわしゅうじ)先生(1851~1917)の息子さんの著書「伊澤修二」(1921)によれば、明治新政府から学術優秀であるということで、父・伊澤修二がアメリカの教育制度の視察に行きました。彼はアメリカに行って教育関係のことを調べたあと、電話機を発明した有名なグラハム・ベルのところに行きました。彼は電話機の発明で有名ですが、実は聴覚に障害がある人のための治療の先生でした。

 伊澤先生は言語と聴覚は関連があり、そこで勉強して耳が聞こえないために喋れない聾唖(ろうあ)者のための教育をグラハム・ベルの講座の中でじっくりと勉強しました。わが国における障害児教育をアメリカに行き一番先に習った人がこの人でした。   

 伊澤先生が帰国され教育大学の教授になり、東京教育大学の学長にもなって引退されました。更に1903年には小石川の後楽園の一部を政府から払い下げてもらい「楽石社」という言語問題の教育機関をつくりました。英・米・独・仏・ブラジル語など外国語を十数個、次に聴覚障害者、耳が聞こえなく喋れない人、吃音矯正も。 

 吃音矯正が入ったのは「末五郎」という彼の弟さんが大変な吃音だったそうです。グラハム・ベルのところで勉強しているとき、「帰ったら末五郎の吃音を治してやろう」と簡単に考えたのでしょう。6年間のアメリカ留学を終え1878年に日本に帰り弟さんに向かって「あー」っていう発声練習から始めたそうです。※末五郎は末っ子で多喜男の弟である。 

 その経験を通して吃音治療に到ったわけです。この教育機関で生徒を募集したところ、外国語教育では30~40人、聴覚障害者も同じ数で、吃音教室は全国から何百、何千という応募の便りが届きました。彼は先頭に立ち吃音教育を始めました。晩年は「視話法」による吃音矯正の社会事業に力を注いだと記録に残っています。徹底した言語矯正、呼吸に合わせて「あー」と発声する練習、口形練習、「おはぁよぉーございます。」   

 当時、吃音矯正の先駆者として聾唖者の言語訓練法を吃音者に当てはめたという方法論に間違いがあったのでしょう。今日からみてあまりに治療法がなかった時代、学問的研究がない時代。いけないのは彼の没後、生徒さん達が全国各地で旗揚げして吃音矯正所を開き先生の物真似ではないといい募集をしたことや、「一週間で必ず治る」とか「30日で吃りが治る」という宣伝をして藁(ワラ)をもすがる思いの吃音者を騙した時代がありました。

 善意の心で吃音矯正を体験者がボランティアで行われた時代がありましたが、多くは明治以来の方法や自己流の方法で指導されていて吃音治療は「虫歯を治しに歯医者に行くようなものではないこと」は吃音体験者なら理解できると思います! 

 近年、大都市では民間吃音矯正所が出来、時間とお金をかけ通院・合宿して矯正に励んだ時代がありました。一人で悩んでいた吃音者にとって「光」なのかも知れません。そこでは吃音問題で共感しあえたこともいいことだと思いますが、吃音を治したいという切実な願いは叶えられることはなかった。情報の発達した今、吃音は必ず治せるという言葉は幻想のようです。ネット上では時どき信じさせようと現れることがあります。

 《吃音治療の始まり:吃音の世界(菊池良和著)部分転載》記の梅田先生講演の重複は避けて入力します。

 伊澤修二は我が国初、明治・大正の教育家で、日本の教育のほか台湾・など植民地での教育、中国語の言語研究などに活躍しました。

 伊澤は1900年に気管支炎にかかり命に係わる状態になったそうです。病気から回復すると貴族院議員以外の役職を離れ末五郎の吃音がきっかけで「吃音矯正・治療」に取り組まれました。                       

 

  以下は楽石社の目的になります。

視話法。②正しき日本語を伝授する。③正しき英語音を伝授する。④正しき清国語音を伝授する。⑤正しき台湾語を伝授する。⑤吃音を矯正する。⑧唖子にものを言わせる。このいずれかに関心のある人を募集したところ12歳から50歳の7名ですべて吃音矯正を希望する人たちでした。彼は末五郎を助手として7名を自宅座敷で事業を始めました(1903年3月20日)、その後希望する者が多く来所するようになりました。

 グラハム・ベルとの縁で彼が開発した吃音矯正法を1903年アメリカの世界博覧会で発表しました。世界初のことでした。1910年にはヨーロッパで有名なドイツのヘルマン博士の研究を視察しました。伊澤と彼との矯正方法の手法は似ていたが、理論の根本が異なると主張していました。

 ヘルマン博士では①吃音の原因は、脳神経すなわち脳の言語中枢にあり、②吃音者は生まれた時から吃音になりやすい性質を持っているとなります。

 伊澤は反対に「吃音の原因は、声帯を締めるという習慣にある。吃音のある人の話し方を真似することで獲得したに違いない」としていました。

すなわち、伊澤は声帯が重要であり、声帯を開き、複式呼吸を徹底すること「ハー、ヘー、ホー」を中心とした発音訓練をすることによって吃音は必ず治るものとしてとらえていたことが分かります。

 1900~1910年代は日本はドイツよりアメリカよりも吃音治療が盛んで吃音治療大国であったとも言えるでしょう。しかし伊澤は1917年脳出血で急逝しました(67歳)。

 松澤忠太が後継となり伊澤の教えを発展する。彼は吃音矯正事業を発展させたことに政界・学会・芸術界に活躍する多くの人たちにより謝恩会が立ち上がり東京・本郷に校舎が建立が進められることになったが、完成直前の9月1日に関東大震災が起き校舎は消失した。松澤は場所を大阪に移し、大阪市立聾啞学校の校舎を借りて再開しました。聾唖学校での吃音矯正は急速に発展、彼の指導法は、腹式丹田からの発声に加え、精神力を高めて吃音を征服し、社会での活躍を目指すというもの。「やればできる やってできないことはない」という情熱的指導は評判になり、当時の大阪市長にも届き1927年10月の大阪市会で御津小学校校舎を無償贈与する決議が可決し、大阪府より500余坪の土地が払下げが決まった。

1928年には公益財団法人日本吃音学院の校舎が完成。1903~1933年までに合計21,621名の吃音者を完治したという記録や天皇陛下に三度の特別参拝や多くの栄誉や表彰があった。その影響もあり誰もが吃音は矯正できるものだと思うようになった。松澤は58歳で亡くなり学院の事業は小林正直に引き継がれたが吃音矯正事業は縮小。

 楽石社の指導法には生々しい記録が残っている。講習生は午後になると独習で三峰川の河原で矯正法を頼りに瀬音に負けない大声で練習。先生の指導は厳格で二度注意し出来なければ頬をつまみ上げた。先生の書生が言うには時々受講生に先生は大変きつい、自分も叩かれることがよくあると。先生の指導で吃音者はほとんど吃音が矯正された、となっているが本当に完全に治ったのか。

1908年の読売新聞の記事では、楽石社では「全治した」かを判断するため試験を行っていた。次の文章を読めるかどうか「かっぱと かめとが かけごとなして かちかちやまを、かけまわって、かけくらを、はじめたかっぱは かめを、かけぬけて、(以下略)」。このような文章を「滞りなくスラスラということができれば卒業でき、普通の人と少しも変った所はない」と判断された。伊澤は非吃音者のためこのような文章で吃音が出てこなければ全治したと判断したのかも知れません。

 吃音は、反復練習を行うと軽減するものの一旦場面が変ると出てくる特徴があります。電話や発表、上司への報告や「相手の話し方に合わせる困難さ」など環境が変れば吃音は出てくることが多いのです。


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